パラサイト 半地下の家族

映画レビュー

201912月日本公開 監督:ポン・ジュノ

概要

富裕層の家(パク家)に貧困層の一家(キム家)が身分を隠しながら家庭教、家政婦、ドライバーとして入り込み寄生するように暮らす計画を立てる。計画は順調に見えたが、想定外の事態がキム家、さらにパク家を狂わせる。

学び:「社会」を生きるには?

そもそも社会とは

 社会の成り立ちを振り返ると法の内と外があることがわかる。社会学者、宮台真司氏の説明に明るいが、1万年前から世界各地で定住が始まり、定住するものとそれまで通りの非定住の暮らしをするものに別れた。定住する集団が社会になるわけだが、定住する集団規模が大きくなるにつれ法が必要になる。ここでいう法は法律にとどまらず、社会規範、経済システムなどのように明文化の形をとっていないきまり、習慣、暗黙のルールを指す。ヒトにはゲノム的に150人前後以上を仲間として実感できないという習性があり、故に法によって共通認識を作る必要が生じるからだ。

 定住民は法に従わない非定住民を蛮族とみなし差別してきたが、法に縛られた社会を生きるというのは、生き物として自然な非定住の習慣に反した事をすることであり、気が枯れる。つまり感情の力が弱る。(一説には「穢れ」は気(ケ)が枯れる、が語源とされている)。故に世界各地で定期的に祭をして、祭の際には非定住民=法の外を生きることで気(ケ)が枯れていない人を連れてきて、彼らから気(ケ)を分けてもらう、という風習が見られる。

 この成り立ちの歴史は法の内側に完全適応すると感情が弱るということを教えてくれる。現代で法の外があると実感することはあるだろうか?私は仕事で年長者(70代前後の人たち)と日常的に会話するが、40年ほど前は今よりは仕組み化されていなかったことがわかる。彼らは法の外の世界があることを実感的に知っており、内外を行き来するという感覚も持っている。私の世代(30代前半)では彼らの話は聞いたことがあっても実感はないものが多い。あらゆるものが仕組み化(法化)された現代社会を生きる人には法の外は認識しにくい。それはつまり、感情が弱った状態が常態化しているということかもしれない。映画では法外のキム家と法内のパク家が対称的に描かれる。

キム家

キム父が事業に失敗したことで社会の底辺で生きることになっており、詐欺行為に向かう。法の外を生きている。しかし家族の仲は良く感情的に豊かであり、人に成り切る力がある。キム家の人々は感情が弱っていない。さらに言葉なしで伝える言外の力があることが描かれる(喧嘩のフリ、父の行き先がわかる、モールス信号を受け取る)。

キム・ギテク(父):解雇された運転手の心配をする。地下の男への侮辱を自分のものと感じてしまう。

キム・チュンスク(母):ギテク と息のあった喧嘩のフリをする。地下の夫婦を心配する。

キム・ギウ(息子):交渉力がある。友人ミニョクを真似する。パク・ダヘを一瞬で魅了する。

キム・ギジョン(娘):誰もが手を焼くパク・ダソンを一度で手なずける。

パク家

パク父がIT企業の社長であり、社会の上位にいる。社会に完全適応しているとも言えるだろう。パク母は子どもに英才教育をほどこし社会の上位に位置づけることに躍起になっている。しかし、法内を生きていて感情が弱っているようにも見える。パク父は妻を愛しているのか怪しく、パク母はキム家の人々の言葉に簡単に踊らされてしまい、損得勘定で長年勤めた家政婦まで解雇してしまう。「アメリカ」という言葉が絡めばなんでも肯定的に受け取ってしまい権威に弱い。パク夫婦は、キム家の侵入に気がつかないが、幼く十分に社会化されていない息子ダソンは匂いによって異変に気がつく。

パク・ドンイク(父):妻を愛しているのか怪しい。

パク・ヨンギョ(母):社交的ではあるが、言葉にすぐ踊らされる。権威に弱い。

パク・ダヘ(娘):富裕層の人々を見てギウに対し「あの人たちつまんないよ」という。社会に適応した人間より社会をなりすまして生きるギウに魅力を感じている。

パク・ダソン(息子):ダヘいわくダソンは両親が望むものになりすましてる。彼の描いた絵は自画像ではなく地下の男と思われる。インディアンごっこは侵入者への威嚇のメタファーだろうか?

方法1:なりすまして生きる

現代に人が社会と関わらず生きることは困難であり、社会という法内をなんとか生きるしかない。しかし社会を生きると感情が弱る。社会を生きるのに感情に振り回されてはいけないことは誰もが経験的に知っている。法外の存在であるキム家も社会を生きるしかない。彼らはなりすます事で本来の自分と社会上の自分を行き来している。キム家にとって半地下の家はパク家という社会で摩滅した気を回復するための法外の場所であり、社会をなりすまして生きるためのホームベースになっているように見える。

一方、パク家にとっては社会も家も法内であり社会的な存在と本来の自分を一致させている。法外がそもそも存在しない故に行き来は生じない。

法内のみを生きるパク・ドンイクには法外は存在しないも同然である。ドンイクは半地下の暮らしなど見たこともないし、知ったこっちゃない。だが“匂”いとして現される違和感は察知している。ドンイクにとって法外の存在は「よくわからないけど臭いもの」として描かれる。この「よくわからないけど臭いもの」扱いにキム・ギテクは耐えられなくなったと思われる。

ギテクはなりすませなくなり感情に流されてしまう。そして社会を生きることができなくなる。

方法2:いい動機を持つ

 キム・ギウにあってギテクになかったものは計画である。社会を生きるには必要なものだろう。感情の暴走を止める効果があるのかもしれない。しかし、ギテクが語るように想定外の事態は誰の身にも起き、時に計画は崩れる。しかもその遂行に躍起になっても暴力が生じる。ギウは計画の邪魔になる地下の男を殺そうとする。計画は万能ではない。

 ギウは偶然にパク家へ出入する機会を得て家族のために寄生計画を始めたが、計画が進むにつれ計画の遂行が目的になっていったようにみえる。財運をもたらす山水景石が貼りつて離れないという台詞や、ダヘに富裕層への憧れととれる発言があるように金持ちへの憧れが芽生えたことによるのかもしれない。

 だが終盤の事件によってギウに「もう一度父と暮らす」という“動機”が生じる。彼はもう一度計画をたてるが、今回は明確な動機があり計画も金も“手段”になる。金自体への執着を手放すかのようにギウは山水景石を川へ返す。ギウは完全に法外のものとなった父と暮らすために社会には金をつくる本当の目的を隠し、何かになりすまし生きていくのだろう。ギウの計画は幻想とも取れるが彼には希望でもある。

 社会をなりすまして生きることは、法外で大切な人と生きるという動機があってこそできることなのかもしれない。

感想

少々理屈っぽく語ったものの単純に面白い。シリアスなのに笑えるところがすごい映画だ。上に書いたことは一側面でいろいろな見方ができる映画だと思う。格差社会の批判とも取れるし、階層で分断していてお互いに分かり合えないままという風刺にも見える。映像に映らない「匂い」をキーワードにしているところも挑戦的で面白い。

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