れいわ一揆

映画レビュー

監督:原一男 2020年9月公開

概要

20197月の参議院選挙にれいわ新選組から出馬した候補者の姿を候補者の1人、安冨歩氏を中心に追うドキュメンタリー。

安冨氏は選挙というシステムを自身の主張のパフォーマンスの場、さらには映画化することにつかい、政策ではなく「子どもを守ろう」という生き方の原理を訴える。選挙というキャンバスの上にアートを生み出し、選挙がなければ生み出せない作品を生み出そうとする。

テーマ:「日本社会の暴力」と「非暴力」の戦い

劇中安冨氏は以下のように語る。

井の頭公園にて

私選挙運動が大嫌いなんで、あの、スピーカーでがなるとか、白い手袋でなんか手振ったりするっていう意味のない行為を見るとヘコむので、そうじゃない方法でないと。。。

意味のないことをすると暴力になると思っているんです。

だから選挙そのものが暴力的だと政治も暴力的になるんじゃないかと思っているので選挙を暴力なしにやりたい。

安冨氏は街頭演説で人々が気づいていないような日本社会の暴力性(立場の重視、学校のあり方、学歴差別、景観の破壊、文化財の破壊、自由の場の破壊、カテゴライズなど)について語り、カメラの前にそれを見せる。

神宮外苑、東京駅前、京都大学前で警備員と揉めるシーンがある。警備員は立場を守るため、与えられた役をこなすべく安冨氏を排除しようとする。安冨氏は立場や、記号化により人は思考停止し、目の前で起きている事の意味を自分で考えることや価値を感じることに蓋をしてしまっている、という危険性を説く。

安冨氏は立場ではなく子どもを守ることを提案する。

与えられた役割を猛烈にこなす、立場主義が機能した7080年代時代は終わっており、役をこなすことはコンピュータにとってかわられている。コンピュータにできないことをしなければ次の時代を切り開いていくことはできない。コンピュータにできないことは人間らしく生きることであり、子どもを守らなければ人間らしさは保たれない。

「子どもを守ろう」と語ることが安冨氏自身の政治活動であり、議席を持つことは副次的なことだと考えている。当選することを目的にしても選挙システムに適合している党には勝てないことは明らかで、選挙に当選するための活動はしていない。立場主義システムの作動を狂わせるべく人々に日本社会の暴力性に気づきを与えようとする。立場主義システムが強力であるため、人々が気がつき非暴力運動が広まっていくことでしか日本は変えられないという確信がうかがえる。

感想

建築学生におすすめしたい映画だった。

安冨氏は街頭演説で都市について以下のように語る。

阿佐ヶ谷にて

都市というのはあまりにも記号化されすぎていると思います。

記号というのは先に人間がどこをどうするのか決めて図面を引いて図面という記号に合わせて世界を作っていきます。それが都市です。自然の一部である人間もまたその記号化された都市から排除されてしまっている。これが私たちが都会に住んでいて感じる孤独とか苦悩の原因ではないかと思っています。

東京駅前にて

白い馬が東京駅の前にいてとっても可愛くて綺麗だ、ということと、ここに入るなと言って追っ払う警備員と、どっちが普通の考えか?東京駅の駅前のスペースは動物は入れないんだと言って追い出されましたが、人間は動物じゃないって思ってるわけですね?

お立場はよくわかりますが、お立場は離れて、あそこに白い馬がいたら綺麗じゃないですか。ぜひJRで馬を買ってあそこに配置して欲しいと思います。

お立場はよくわかります。皆さんのご迷惑にはなりませんが、ぜひそういう楽しいことを人間として考えて立場を利用して実現していただければと思います。

この辺に馬が2、3頭いて毎日草でも食ってたら、中央線に飛び込む人の数も減るはずです。

品川駅前にて

人間は動物に入ってません。でもどんなに偉そうにしたって、どんなに頑張ったって私たちは如何しようも無い、愚かな猿です。

この記号化された都市に詰め込まれて人間は平気かもしれませんが、猿は苦しんでいます。

吉祥寺公園にて

東京都いう町は馬が来るだけでみんな大騒ぎになってしまいます。大騒ぎというのはとても喜んでしまう方もいれば怒り出す方もいます。私がこの選挙を通じて皆さんに見て欲しかったことの一つはこの馬に対する私たちの反応を見て欲しかったんです。喜びであったり、怒りであったり。でもなんで単に一匹の動物が来るだけでこんな感情が起きてしまうのか?それは私たちが記号化された世界に閉じ込められてしまっていてその異質なもの、生の生命というようなものを目にすると大きな反応してしまうようになっています。それは、この空間が命が欠乏していることを示しているんだと思うんです。

生命の排除の雰囲気を感じ取ったのか、東京を練り歩く馬に落ち着きがなくなる様子が映し出される。

日本の道・建物は、ここはこういう行為をする場であり、こういう行為はダメ、と決まっている。秩序を重視したあまり、何をしてもいい場所があまりにもない。公園ですら球技禁止などという始末だ。お金を使ってカフェにでも入らなければ、ただ居ることすら難しい。

この閉塞感が人間に悪影響を与えていないとは思えない。人が街を使いこなしている環境に行けば、この異様さがわかるはずだ。

私が学生の頃に訪れたプノンペンの街は建築を専門にしている日本人の目で見ると秩序化されていない。道には商店がはみ出し、露店が並び、屋上は不法占拠されている。この秩序化されすぎていない状態が人に対話する耐性を生むのかもしれない。プノンペン市内では道がわからないなど些細な困りごとがあるとすぐに人だかりができる。直接問題に関係ないその場に居合わせた人が話に入ってくるからだ。日本にいるより孤立しそうにない。

建築学科の学生の中には、こういった都市の閉塞感、つまらなさ、人々の孤立感、に問題意識を持ち設計課題や卒業制作でその答えを出そうとする学生がいる。私もその一人だった。

理由は様々と思うが、建築学科の課題において、境界を曖昧にする、「秩序の裂け目」を演出する、といった提案は少なくない。建築の実務においても、業界紙を見る限りこういった設計側の回答は珍しいものではない。安冨氏の主張はこの視点の重要さを語ってもいるし、同時に建築設計的解決の難しさも感じさせる。建築設計を続けることに意味を感じなくなる人、感じる人、両方いるかもしれない。

難しさはいくつもある

・建築設計という行為自体が計画して制御する記号化である。

・建築設計の上位概念である都市計画に問題の根本がある。

・都市での建築は特に経済原理で決まってしまう。多くの場合、経済原理上はこういった問題への提案は無駄になる。

・秩序化が悪いことだと思っている人は少ない。

・設計者は与えられた敷地境界の中で「秩序の裂け目」を演出するにすぎず、人為的であり、どこか薄ら寒さが残る。

建築設計が根本的な解決策にならないというのも頷けるし、やらないよりはマシという話も頷ける。

だが、建築学科にきてこういった都市の問題に興味を持った人には、是非、有効な手立てを考え続けて欲しいと思う。私も考えて実行したい。建築設計という方法で取り組むにしろ、別の方法をとるにしろである。

いずれにせよ、裂け目をつくる、異界の力を引き出す、がヒントになる

映画の冒頭で安冨氏はこう語る。

私が見せないといけないと思っているのは、その、、、希望だと思うんですよね。

今までがんじがらめになっている東京とか、都市という空間の中に、馬だどか、チンドンパレードとかそういう異常な空間、異界というものが存在しうるのだということを示して、実は世界は閉じられていないということを人々に認識して欲しい。世界には裂け目みたいなものが実はあるんだってことがわかれば、そこに希望が見えるんですよね。

自らの職能を建築物を建てることに限らず、場を作る仕事である、と考えれば、異界の力を引き出す方法が色々と浮かぶかもしれない。

最後に

本作は、れいわ新選組を礼賛する映画ではない。現に代表、山本太郎は撮られることを避けているように見える。YouTube上で原監督自身がそう語っている。

安冨氏の語りは気づきを与えるパンチラインに富んでおり、論理、言葉の力が感じられる映画だ。

どの政党支持者にも、政治に興味がないという人にも見て欲しい映画だ。日常生活で感じる違和感の正体がわかるかも知れない。

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