概要
母屋:旧久場家 登録有形文化財
ヒンプン:旧久場家 登録有形文化財
豚舎:旧平田家 登録有形文化財
以上、大正年間築造
所在地: 沖縄市立ふるさと園(ふるさと園は沖縄こどもの国の中にあり、こどもの国への入園料(大人1人500円)が必要)
沖縄の民家が見たくてやってきました。
明治~大正時代の沖縄の農家の典型的な屋敷構えが再現されています。とてもわかりやすく、昔ながらの沖縄の屋敷を体感するのにぴったりです。母屋(ウフヤー)・屏風(ヒンプン)・豚舎(フールヤー)は大正時代の建物の移築とのこと。移築以外の要素(屋敷囲い、畜舎、離れ座敷、井戸、高倉)は既存かと思われますが記述がないため不明。
高倉
屋敷囲の外に高倉があり、東南アジアに見られる倉のような独創的な造形でお出迎えしてくれます。高倉は富の象徴となっていたようです。
屏風(ヒンプン)
屋敷の入り口には沖縄の民家の特徴である屏風(ヒンプン)があります。邪気退散の意味があるそう。風避けにもなっているのでしょう。客人は右、住民は左を通ったそう。材質は港川産の粟石とのこと。
ヒンプンの脇を通ると庭( ナー)を挟んで母屋(ウフヤー )が南面して建ち西に畜舎(ネーヌヤー)、東に離れ座敷(アシャギ)が建っています。
母屋(ウフヤー)
母屋は日を受ける赤土色の屋根と深い軒による影が合間ってか屋根の存在感を強く受けます。左右対称の寄棟であることからも堂々として、かつおおらかな印象です。
母屋平面図
間取りは大きく南面と北面に分かれ南面は東から床の間があり接客または家長の寝室として使われた一番座、家の中央に位置し仏壇(トートーメー)の置かれる二番座、地炉(ジール)が切られ居間の様な使われ方の三番座、かまどの置かれた台所となっており、一番座、二番座には縁が廻っています。玄関はなく縁から入っていたようです。玄関がないこと、仏壇が置かれる部屋が家の中央に位置するというのが、本州の民家との大きな違いであると感じました。と同時に仏壇が家の中央に位置するという点が中国の漢族の民家に類似しているというのが第一印象でした。北側は裏座と呼ばれ、当旧久場家では南側と対応するように東から一番裏座、二番裏座、三番裏座と呼ばれていたようです。
プロポーション
南面の部屋は襖で仕切られていたよう。鴨居の高さはメジャーを持っていなかったので目算ですが1750程度。開口のプロポーションが正方形になるように意識されているように見えます。二番座の仏壇も正方形プロポーション。鴨居をほかより高くして格を上げているようです。一番座の床の間も同様です。
小屋組
貫木屋(ヌチジヤー)構法。釘は用いず、仕口や継手で締め固めて部材を接合しています。寄棟屋根の棟の位置は1階の柱の位置と関係なく決まるので小屋組が難しそうです。
離れ座敷(アシャギ) または 前の屋(メーヌヤー)
敷地東側の離れは結婚した息子家族、老人、または客人の部屋として使われたようです。この配置は中国の山村で見た屋敷の構成に類似していました。沖縄と中国の山村が影響を与えあっているとは考えにくいですが、(同じ漢族文化圏という発想もできますが、)離れが作られるというのは家族制度に根ざした何か普遍的な現象なのかもしれません。
畜舎(ネーヌヤー)
畜舎は石積みの壁が採用され、壁の上に木造の寄棟屋根が乗せられています。本州で家畜の小屋に石積が使われるような例は見たことがありません。城に使うものという印象です。はじめは耐水の為かと思いましたが、琉球王朝時代から豚は貴重な財産として扱われていたことから堅牢な石造りが装用されたとの見方があるようです。積み方がカッコいいです。
豚舎(フールヤー)
中国伝来のもので便所兼豚小屋として使われていました。便を豚に食べさせていたようですが、戦後に不衛生ということで禁止になったそうです。こちらも石造りです。アーチの加工が難しそうです。どうやったのでしょう?
井戸(カー)
敷地内のそこかしこに石材が使われ石造り文化圏であったことが実感されます。
疑問
これまでに2棟(屋部の久護家、旧久場家)文化財になっている母屋を見ましたが、知らない土地の民家を見て民家研究をしていた頃の血が騒いだのかいろいろな疑問がうかんできました。
・棟の中央と仏壇の中央を合わせるのが本来の母屋の建て方の作法?
中国の影響を受けていて家の中央に仏壇を置いているとすれば、中国に倣って屋根の真ん中と仏壇の真ん中は揃えるというのが作法なように感じます。今回の旧久場家では揃っていますが、そうなっていない文化財級の民家もいくつもあるようです。そうなると簡単には言い切れません。ただ、18世紀中頃築造の沖縄の民家としては最古級の2つの重要文化財、旧宮良殿内と中村家住宅を見るとそうなっています。
・文化の混在、近代化による中央重視の軟化があるのではないか?
歴史が降ってそもそもの原理が忘れられたのか、日本からの文化の影響で中国文化を重視する姿勢が弱まったのか、いろいろな憶測が浮かびます。
・琉球語の部屋名と日本語の部屋名が混在しているのではないか?
琉球語での建物名称、部屋名称を調べてみると琉球語での名称がわかるものとわからないものがある。わからないものは琉球語での名称が無いということだろうか?無いのであればなぜ無いのか?元々は存在せず本州から輸入された概念ということだろうか?
・一番座、二番座、三番座という呼び方は何に基づいているのか?
家のもっとも主要な部屋の名前にしては随分便宜的な名前がついていると感じるのは私だけでしょうか?ネットで調べただけでは琉球語らしい部屋名が出てきませんでした。本当にもともとこういう部屋名だったのでしょうか?仏壇のある間を二番座と呼ぶのは不自然ではないでしょうか?仏壇を重視してるんじゃないの?仏壇にはトートーメーという琉球語があるのに。
・家族制度と間取りの関係はどのようか?
核家族か拡大家族どちらに基づいた家の構成なのでしょうか?誰がどの部屋を使うかが厳密に決まっているのでしょうか?
・鹿児島、台湾の民家との類似はあるのか?
同時代のそれぞれの土地の民家を比較すると何か発見があるかもしれません。
・穴屋(アナヤー)と今回の民家の類似と相違はどのようか?
穴屋(アナヤー)とはグスク時代(12~15世紀)から明治ごろまであったとされる庶民の家です。今回見たものより初源的な民家と言えます。今回の民家とどのように類似し、どのように異なるのか気になるところです。
既に調べられていることもあると思うので今後文献を調査してみようと思います。
石造の文化圏であり、中国建築・日本建築の影響を受け、東南アジアの建築にも類似した面を持っていることが沖縄の民家から感じられました。複数の文化が混ざり合い、いろんな推測ができてしまうところが魅力です。もっと沖縄の民家を見に行きたくなりました。